対戦相手の立ち位置とラケットの構え方が見えない、老眼だから?

50歳手前にバドミントンを始め、最初にあれ~と感じたことは足が素早く一歩前に、後ろに動けない、それに歩幅が小さい。もともと走るが苦手で、健康のために運動しようなら、ジョギングの選択肢は私にないとはっきりに言える。バドミントンを選んだ動機も健康のためではなく、純粋にやってみたかっただけだ。

始めて数年が経ったごろ、チーム内で試合練をしていると先輩がよく人のいないところを狙ってくださいと言った。もうすぐバド歴10年になる今は、言われる回数は減ったがまた言われている。ここはポジティブに進歩したにしよう。

人のいないところに打つのは分かっている。問題は人のいないところってたまにしか見えない。

そのたまにってという時?

例えば対戦相手の二人が右側に凄く寄っている時だと左側がはっきりガラ空きに見えるのだ。

そんなのは当たり前でしょうと突っ込みたいあなたに弁解させてください。

コートに立ってれば無我夢中になる、私の場合は最初の2,3年にこの状況をすら把握出来ていなかった。だからたまになるのだ。

加えて対戦相手のラケットの構え方を見ることだと、これは完全に見えないのだ。

すべては老眼が進んでいる、動体視力が弱いにしたいが、真実ではないのだ。

確かに視力の低下は飛んできたシャトルの軌道を速く捉えない、だけとそれは対戦相手の立ち位置とラケットの構え方に見えないとは別問題だ。私より年下の上手な先輩達に聞くと、はっきりくっきりは見えてないよ、だいたい見えてるぐらいだよと回答した。

そうか、だいたいでいんだ。だけど、私はだいたいという程度にすらいかない、どうすればだいたい見えるようになるの?この極めて重要なことに。

先日、この壁というほどの悩みをコーチに聞いてみたところ、高く飛んで来るシャトルを見すぎているかもしれない、要するに目線がずっとシャトルを追っかけっている。相手が打った高くて遠い球なら、飛ぶ方向がだいたい分かっていて来るまでは時間がかかる、それで相手が一瞬に見えるとコーチが教えてくれた。

私はテレビで見た山口茜選手を思い出した。彼女は確かに高く飛んで来るシャトルを見て、相手を見て、またシャトルを見て打つ、凄く余裕があるに見えるのだ。

あの~世界のトップ選手の真似は無理でしょう。

無理ですね。鑑賞のみですね。そもそも真似したいとも言ってない。

しかし、よく考えてみたら、私がいるステージでの競争なので、自分はどのあたりにいるかは分からないが、楽観的に真ん中あたりにいると仮定すれば、同じ悩みを持つ、同じ壁にぶつかっている人のが大多数だ。上手な先輩達は「だいたい」を言っているし、自分も「だいたい」を目指せば十分じゃない?

そうだ。コーチに練習法を聞くのだ。

バドミントンのとんでもない二面性に気づき、対処できる気がしない

相手が取れるように優しく打ってあげてください。練習だからね、シャトルが何回もお互いの所に行って帰って来るようにラリーしてください。

バドミントン教室の男性Aコーチの言ったことを深く記憶している。

重さ5gのシャトルをなるべくラケットの中央に当てて、真っ直ぐに飛ばすにはラケットコントロールが重要だ。もしお互いが打ったシャトルがあちこち乱飛行、相手が返せないまま落地すると、シャトルを拾ってやり直すことになる。このような場面が頻発すると、もはやバドミントンとは言い難く、シャトルを拾う会になる。

これじゃ楽しくならない。どちらかがもうやめようと切り出すことが目に浮かぶ。

しかし簡単そうに見える打ち合いは、初心者同士がやると本当にラリーが続かなくて、すみません、すみませんの連発になる。この状況は相手が打ちやすいところへ返す練習をするにつれて徐々に改善されていくのだ。

ところで、試合形式の練習会へ行くと、試合だから、点数を稼ぐには相手の取れないところへ打つように切り替えなければいけない。

そう、Aコーチの「練習だからね」と言った言葉がコーチング解読の重要ポイント、言い換えれば練習ではなく試合であったらどうなるのか?

打ち方、考え方は正反対になる。思いやりはいらない、いるのは意地悪、恋人同士が大好きと言った後に大嫌いと言うのと同じことだと私は思う。その変貌ぶりは何?と聞きたくもなる。

私はバドミントンの持つ正反対の二面性に魅力を感じているかもしれない。俳優ならプライベート以外の色んな役を演じる機会がある、私にはない。日常生活に多かれ少なかれストレスがたまる。バドミントンの試合には合法的に意地悪さを発揮できる。あるだけの意地悪さを存分にさらけ出すほうが拍手をもらえる。うんん~、なんか人間性が試されているような気がする。

ただ、練習時は相手がシャトルを取れるように打たないと練習が成立しないため、自然に相手のいる所へ打ち返すことを身体が覚える。身体が反射的にこのように反応する。試合と練習では正反対のことをやるだなんてある意味では器用すぎる。

今の私は対処できる気がしない、そうですね、だからまだまだ下手で伸びしろがあると考えるしかないのだ。

負けた試合に落ち込むだけではもったいない

バドミントン試合の前日に口にした悪いシナリオが現実となった。

それは自分の中で凄く凄く重要視をしていた大会でトーナメント戦の一回戦敗退を喫したことだ。言霊は恐るべし。

同じペアと組んで先月の大会で優勝した波に乗りだかった。一方、一筋縄にはいかないと心の準備もあったが、1点差負けで一回戦敗退の瞬間は平然な顔で結果を受け止め、ペアに自分のミスで足を引っ張だとお詫びするのが精一杯だった。

ペアはジュニアのコーチをされていて、チーム内の練習も皆に教える存在だ。この2大会を通じて私は彼女からたくさんの事を学べた。本当にありがたかった。

こんなはずじゃなかった結果はメンタルに来る、場合によって暗闇のトンネルに入ったとうになかなか出られない、この状況に陥るには金字塔の上にいる人と最下層にいる人共にある。その深刻さの度合いは上にいるから軽い、あるいは重いではない、どう受けとめる、受けとめったあとはどう出るのがカギだ。

負けた試合に出来なかったことを気つけたら先ずはひと収穫だ。この出来なかったことを出来るようにすれば、「出来た」の喜びと自信になる。自己肯定感だって高まるだろう。

だから負けた試合を目からそらして挫けた心を時間で癒すではなく、時間で癒すにはタイパが悪すぎてもったいないのだ。萎えていても問題点を見つけ出し、時間をかけて次試合の楽しみを自ら作って増やすのだ。それが成長に繋がるだな。

ところで、私のバド技量は言われなても不足点満載と自覚している。それはそれで分かりやすい、一分間で改善点をスラスラ十個を書き出す自信がある。

ならば、こういう考えが出来る。次回の試合に一つの改善点をクリアしたら一つの楽しみを手に入れるとカウントすれば、実に数多くの楽しみが私を待っている。

それを掴むに行くかどうかもすべて自分次第、そう思うとモチベーションが高くなった。

自転車なら駐車場の心配はいらない、トレーニングも出来て、一石二鳥だ。

家は坂の上にある。駅からの帰り道は平坦な道路を始め、次は150メートルほど緩やかな坂を上って一曲がりして、更に二段階の坂を上って辿り着く。この道を徒歩か自転車かで通るなら、私に言わせれば山登りだ。

バドミントンに利用する近場のいくつかの体育館は自宅から3-5㎞ほど、数年前までは車で行ってた。

バド歴と年齢が共に一年つづ重ねていくなかで、この二つの現状をチャットで表現すると、両者はかなり開きのある右肩上がりしている。実感としては、年齢は毎年必ず一つ上がるに対して、バド力は僅かに上がるってことだ。

それでも感謝だ。後々は年齢が右上がりにバド力は心臓停止の心電図のように横線に、その後は右下がりに転じるのだろう。

この必然的なことを遅らせたいに考える。筋肉量についてもう少し考えたほうがいいのでは?

いくつになっても筋肉は鍛えられる、筋肉を鍛えた分に裏切らないらしい。私のような中高年の女性が熱心にバドミントン練習をすると、バドミントンに必要なトレーニングを取り入れないと身体が思うように動けないと分かるが、苦手を超して苦痛ほどだ。

そこで交通手段に目を付けた。少しでも脚力増強をしたい、近場の移動なら快適な車を止めて自転車にした。

ヘルメットをかぶり、バド道具を背中に行き、帰りにペタルをこぐ。

始めは五分をこいだだけで太股がズキンズキンと、一こぎが重たく感じた。体育館に着き、バドミントンをする前に足もう疲れていた。今度は自宅を目前にするあの上り坂に泣かされる。

ここは意地でも自転車をこぐ、ハンドルが左右にぶれでも頑張って一こぐ、これがトレーニングの一環だと決め、けっして足が地に着き押して帰らない。

雨天以外、季節に関係なくこのスタイルで続けている。5㎞ぐらいの距離に短期間で慣れたことはまた驚きだ。

そして自転車の自由度の高さにも気付かされた。車には駐車場に悩まされることがあっても自転車にはない。体育館なら駐輪場は無料で駐車場は数百円かかる。節約した駐車代はほかの物を買うとなんか得した気分になる。普通の自転車だから、電気も使てなく環境にやしい。

一石二鳥だけにとどまらず、いいこと尽くしだ。

桜が咲く春に、川沿いの桜並木の下に自転車で走る。そよ風が肌を撫でる、週2、3通るから高確率で桜吹雪に遭う。猛暑日、残暑きびしい日にも桜並木の木陰に助けられている。冬の寒さにむしろへっちゃら、強風こそ最強の敵だ。

「このぐらいの距離ではトレーニング効果が薄いと思うよ、たまにもう少し距離を伸ばした方がいいのでは?走ろうよ。」と半年過ぎたごろに夫が言った。

その後、彼の誘いに乗せられ、始めて往復数十㎞を走った翌日にバドの練習がなかったことに幸いだった。

嬉しい泣き、もらい泣き

三位決定戦に勝った瞬間、彼女達の喜びは頂点に達した。勝者サインをした後、応援する仲間の所に駆けつけ、長身のA子さんは真っ赤な顔にして涙が溢れ、小柄の私は彼女を両肩を抱き、背中を優しくポンポンと叩いた。

「良かった。本当に良かった。コーチが一番嬉しいと思うよ」私はA子さんの嬉しい泣きにもらい泣きをした。

A子さんのペアB子さんも目に涙が滲んだ。仲間らが彼女達を囲んで拍手をした。

昨日は地元のバドミントン大会のトーナメント戦だった。

A子さんとB子さんは昨年からベアを組んで4部の試合に。わけのわからない中で惨敗を喫した。

お二人のバド歴は十年以下、謙虚さを加味してここでは彼女達を初心者カテゴリーに。

A子さんは試合参加にいつも消極的だった。彼女は試合好きじゃないタイプかなと思ていた。しかし共に教室を通ってバドミントン談義をしているうちに、それは私の誤認かもしれないと気づいたのは、彼女が発した「試合に出るならちゃんと練習して上手になってから出たいね」の一言に思っていたことを改めた。

そうか、試合に参加したくないではない、負ける確率が高いなら出たくない、つまり参加する意味がある側に立っていない、どちらかというと試合に勝ちたい側の人だとか。

憶測せず、その場ではっきり確認しても良かったではないか?

確かにそうですが、私の直球すぎる性格は相手をいっらとさせる可能性があるに自覚しているから、ほかの人もいる時に気安く物事の核心に触れない方がいいと思った。

だが、私達はバドミントンを上手になりたいという共通認識、目標は確信済みだ。

根拠として、週1のチーム練習のほかにあちこちで練習の場を求めている。人によって複数のクラブチームに入っている。ちなみに私は現在三つに所属しているのだ。

A子さんとB子さんは昨年の苦い経験を糧に奮起した。バドミントン教室のほかに、チーム内で私ともう二人が賛同して月1のプライベートレッスンを取り入れた。

コーチは私達のバド熱に親身にコーチングしてくれている。

上目線のつもりは全くないが、彼女達は練習に対する意識が明らかに変わった。

自習練になれば時々上手な先輩に見てもらえるようにお願いする。指摘されたところは丁寧に何回もやり直しをし、体に覚えさせるために少しつつ復習を重ねて行った。冗談抜きで、高校三年間の勉強がこの姿勢でやり抜けたら東大合格したじゃないかと思うほどに頑張っている。

彼女達はグループ戦を全勝してトーナメント戦の切符を手に入れた。

正直に、グループ戦の全勝はすでに大金星だった。彼女達は口にはしなかったが、あと一歩前進したい気持ちは誰にも負けっていないと雰囲気でひしひし伝わて来た。

同じ道を歩んできた私は理解している。すべては自分自身の努力検証と違う景色を見るためだ。

三位を勝ち取れたは間違いなく努力の賜るものだ。

A子さんが我慢できずに嬉しい泣きをしたのは努力が報われたと極限の緊張感が解き放されたに共感する。

いつも一緒に練習している仲間として心底から拍手を送ると更なる上のステージへの応援をいつでもしています。

来年も一緒にいい景色を見よう!

仲間の勝利に目がうるうる

試合に勝利した瞬間、彼女達は両手を高く上げ、飛び跳ねてタッチした。

私はこの光景に目が少しうるうる。

彼女達は勝者サインを終え、待っている仲間達の所へ早歩き、皆とハグ、私は彼女達の目もうるうるに見えた。

一緒にバドミントンを頑張っている4部同士の彼女達は今年がペアを組み、今年こそ3部昇格にしたい、その目標に向けて練習に励んだ。しかし、前回の試合は残念な結果で終わった。今年に残ったチャンスはこの一回だけなのだ。

昇格の大原則は優勝することだ。今日、彼女達は第一関門のグループ突破、来週のトーナメント戦へ進む権利を勝ち取った。

同チームの仲間から見ればこの成果を出せたことに心から大きな拍手をしてあげたい。それと彼女達から感動をもらえたことに感謝だ。

共にバドミントン教室を通っているから、たまに教室の後はファミレスでお昼を食べながらバド談義をする。同じチームとは言え、やはり各自の事情と年齢でバド対する熱の入れ具合はそれぞれ違うのが当然。裾の広いところで争っている中高年バドの位置付けは、どちらかというと生活にメリハリをつけてくれるスパイスのようなものだ。年数回の試合はお祭り感覚が大きいかなあ。

昨年の前半、我々バドミントン教室の四人組は昼食でバド談義をした時、彼女達はもう少し速く上手になりたいなあとぼやけた。まあ、私達にとって「上手になりたい」は永遠の課題と常に口にしている事だからね。

ただ、私はその時の雰囲気が普段と少し違っていて、真剣さを感じた。

「コート問題がクリア出来れば、プライベートレッスンでも取り入れますか?私一人ならレッスン代とシャトル代は重いかも、ここにいる四人で分け合いなら。」

私はさりげなく言ってみた。

皆さんはそうでね、そうですねを数秒間の沈黙、一転して論議に入った。

その日のバド談義はいつよりも白熱した。

結論、私達は月一のプライベートレッスンを取り入れてみるにした。また、次のレッスンまでに教わったことを復習するように決めた。

そして4部の彼女達は組むことにした。私ともう一人はチーム内の1部の人と組んで2部に出て、共に優勝を目指そうとしていた。

あの日から、彼女達の練習の熱量がひしひし伝わて来た。今年に入って、チーム内での練習に誰もが彼女達が変わったことに気づいてた。

今回の試合が前よりもっと努力したの検証になるのだ。

ばずはトーナメント戦進出におめでとう!

そして明日のトーナメント戦に優勝を願います。

彼女達と私に。

一点差の逆転勝利が出来たのは運を引き寄せたから?

バドミントンの試合は三ゲームの二ゲーム先取が勝ちとなる。

私が必ず参加する地元の試合は今週にあった。恐らく体育館の使用時間の関係で運営大会はデュース無しの21点制に決めた。デュースがないから、泣いても笑っても先に21点を取った方が1ゲームゲットになる。そして各グループの一位が次週のトーナメント戦へ。

ということで、優勝を目指すならグループ突破が必須条件、このことを箱抜けとも言うのだ。

一つのグループは4チームの総当たり戦、今までの経験で言うと、箱抜けしたチームは全勝するのが多い、2勝1敗でサッカーのように得失点差による上がることは稀だ。

勝てる自信は何処にもない、自分より体格の良い相手が目の前にいるだけでビビりまくる体質の持ち主だ。常に最初から全力発進でファストゲームを取りに行くが、逆に取られた時点でファイナルゲームを繋ぐにはなんとしてもセカンドゲームを取らなければいけない状況に追い込まれると、そのプレッシャーは大波のように私を叩きつけるのだ。

それが試合と言うものだ。

私は一試合目に弱いタイプで、とにかく緊張して思うように動けない、ミスショットが頻発する悪い癖がある。とても致命的だ。

【三試合目】

もうのんびり出来る。

そして箱ぬけした。

山盛りの反省点を糧に次週のトーナメント戦へ。

恥ずかしさと悔しさあまりについ噓を

「お二人はバドミントンを始またばかりですか?」試合に負けた対戦相手に聞かれた。

咄嗟に「はい。」と答えた。パートナーが言う前に。

これは今年に初めて参加した試合のことだった。

初めて参加する大会なので、雰囲気もレベルも分からない、バド歴は年ごとに重ねていくがバド力は大して上がっていないことに自覚している。それとボコボコされたくないから一番下の4部登録で4部スタートした。

当日、組み合わせ表を見たら、4部は4ペアしかない、そうなると総当たりだけでトーナメント戦がないのだ。

楽だと思ったでしょうね、内心は少し嬉しかった。

だけど、のちに振り返った時、どうして3ペアと対戦することが楽なのか?その楽の意味って何?楽の根拠が全くないし自分にも説明ができないに気づいた。強いて言えば一勝できるじゃないかの気持ちはどこかにあったかもしれない。

結果、勝ったのは一勝ではなく1ゲームだ。(バドミントンは一試合3ゲーム、2ゲーム先取の勝ち)

力不足で負けたから仕方ないが、立ち直れないほど悲惨な内容だった。

ボコボコされたくないから最下層の4部に参戦、結局はボコボコされて終わり、5部があって欲しいかった。いやいや、参加したほうが間違い、無力感が頂点に達した。

その中の一ペアと対戦後、気さくな彼女達は気遣いながら私達に声を掛けくれた。

その会話の流れて、私の心をぐっさと刺された「バドミントンはまだ始めったばかりですか?」と聞かれた瞬間に複雑な思いが湧き出して逃げたかった。

そこに自分のカッコ悪さを粉飾したかったから、咄嗟に「はい。」とパートナーが答える前に言った。

相手は悪気がないと分かっている。自分の平常心が傾けってなければ笑い一言も言えたかもしれないのにね。

その場を離れ、パートナーと顔を合わせた途端に二人は失笑した。

「ちいんさんのあの『はい』は速かったね」

「当たり前でしょう、バドミントン教室を含めて少なくても週3の練習を何年もして来た実情は恥ずかしくて言えないわ。」

本心を隠さずにパートナーに言った。

その後、先輩から聞いた話で、対戦した3ペアは上部から降りって来た人のようだ。

シンニアのバドミントンは年齢区切りと部区切りがあって、小さい大会は部区切りが多いようで、4部が初心者、1部が上級者だ。しかし年齢は重要な考慮要素で、年齢により自己申告で上の部から下の部に降りられる制度が設けられている。

そうか、それが相手の足元にも及ばない理由の一つかもしれないだ。だからって何も思うが、心は少し軽くなった。仮にそれが嘘でも、噓も方便だ。

試合は勝ち負けだけではない、試合を通して人生学をいっぱい学べる。

単純に勝ち、負けなら、負け試合の方が普通で、だからたまに勝つと嬉しい指数がぐん~と上昇する。それがあるから三日坊主の私はバドミントンを続けてこられたと自分は思う。だけど、勝っても負けても晩酌の一杯のビールでリセットするのだ。

もう少し頑張りたいから、ビール一杯でリセットするスタンスに今回も変わらない。

もし地元にプロバドンミントンクラブがあったら

奥原希望選手がプロに転向するニュースを見た時、そうか、バドンミントンのワールドツアーで活躍している大半の日本選手、その実力はプロ級であるが、プロ選手と言えないのだと気が付いた。

そもそも今の日本はバドンミントンのプロリーグがない、選手が国内大会に参加する時は所属企業の代表として試合に、国際大会の時は日本代表だ。

私はバドミントンをやっているからもあって、バドミントン選手の活躍情報に関心を持ち、ライブ中継する数少ない試合にをテレビの前で釘付け、日本開催の国際大会に会場へ足を運ぶこともあった。

バド愛に溢れている私が、もしバド関連の何かあればいいよねと聞かれたら、この文章を書いている現在にふと思いついたのは、サッカーのJリーグ、バスケのBリーグのような地域密着型のプロバドンミントンリーグだね。

スポーツはやるに楽しい、見るに楽しい、皆で育てるに楽しい。

皆で育てるに楽しいとは、今の流行りの「推す活」みたいのことです。

どんなスポーツでもファン同士が試合を見れる場所に集まれば、一体感の空気がすぐその空間に満ちる。

今のは良かったね、今のはちょっと残念だねなど、皆が評論家のように分析したり、共感を持ったりする。

色んな見解はあろうが、国民を一体感にさせやすい平和なコンテンツはスポーツではないかな?

もし私が住んでいる自治体にプロバドンミントンチームがあれば、チームや選手を応援するために試合を見に行くでしょう。

試合はコンサートと同じ、ライブで見る臨場感が違う。テレビ中継のほうが見やすいことは分かる。こも臨場感を味わいたいからライブを見に行くのだ。

それに地元のチームが強くて、皆に愛されるようであれば、一住民としてはやはり誇りを持てる。

だけと、こうなるにはチームの努力だけは限度があると思う。多くの住民がサポーターの役割を担うのが必要不可欠だ。つまり自分もチームの一員、自分もチームに参加している感覚だ。

Jリーグの発足時に、スポンサーがチーム名になれないに反発したニュースに記憶がある。

例えばプロ野球のソフトバンクなら、スポンサーはソフトバンクと言う企業、チーム名は企業名と同じ。

一方、Jリーグの名古屋グランパスのメインスポンサーはトヨタ自動車、サッカーに全く興味のない人なら、名古屋グランパスと言うチーム名を耳にした時、トヨタ自動車と連想しないだろう。たまたまテレビで名古屋グランパスの選手が着ているユニフォームに「TOYOTA」を見た瞬間、始めてトヨタ自動車がスポンサーだと気付くかもしれない。だけと、このことは名古屋の人はみんな知っていると思う。

Jリーグは最初から地域密着に堅持した。もしプロ野球のように企業名をチーム名に、名古屋グランパスがTOYOTAグランパスになったら、サッカーを見てみようの名古屋の人々は、このチームを応援する熱量が下がるかもしれない。なぜなら、名古屋の人のチームではなく、トヨタ自動車のチームと認識されるからだ。

地域密着で選手がより身近の存在

地元のチームが練習を含め、地元で活動しているなら、住民と交流の機会が増えやすく、選手が身近の存在になり、親しみを感じ、ファンになりやすい。また、アスリートは最高のパフォーマンスを発揮、観客を沸かせる、喜ばせる視点でアーティスト、アイドルと似る、スポーツ競技もエンターテイメントの要素が含まれている。

想像しただけでワクワク、楽しい過ぎます。もし選手が身近の存在になれば、おばさんの私も選手にワンポイントアドバイスとゲームするチャンスが幾度に訪れるかもしれない。

Jリーグ初代チェアマン川淵三郎さんはJリーグを立ち上げた主要メンバー。Bリーグもまとまらない中で彼が尽力した。

「川淵三郎様、バドンミントンのプロリーグ立ち上げをお願いできませんか?」おばさんの寝言により。

チームユニフォーム買った

バドミントンショップは少ないだけではない、スポーツ専門店に設けられているバドミントンコーナーは明らかにサッカー、バスケより狭い、だからシューズ、ラケット、ウエアの品数も少ない。日本はバドミントン小国?

でも幸運な事に、私の地元は一間のバドミントン専門ショップがある。普段からお世話になっている。バドミントンのことなら気楽に相談出来て実にありがたい。

お店は年二回バーゲンを行う、みんなは期間中に必需品はもちろん、そうではない物もついつい欲しくなって財布のひもが緩むのだ。

バーゲンセールに弱い、バドに頑張っている自分にご褒美、バーゲンセールチャンスを逃すか?

そんな中で、検定品の新しいユニフォーム買わないかの提案があった。

いいね、いいね、多数のいいねの声が沸き起こった。

早速、お店からカタログを借りて来て検討に入った。

ここでバトミントンのユニフォームについて少し調べた。日本の大会なら日本バドミントン連盟の審査合格品を着用するのこと。服装に厳しくない大会なら審査合格品でなくても大丈夫みたいです。

同じメーカのウエア、審査合格品が高い、カタログに緑色のシャトルマークのあるものが該当する。

これ可愛い、これ強そうに見える、色は青系がいいなあ、クールっぽいもいいじゃない、これなら他のチームとかぶらないかも、それぞれの一言に対して瞬間いじる、瞬間に笑いが起きる。

愉快で楽しい、しかしどれでもいいとはいかない。

着るものはその人のセンスを表す、着るもの一枚でテンションが上がることはよくある。だからそうそう簡単に決まらない。

それに皆で共通の一枚だけ買うと言うのは、一枚しか選べない、それにせっかくみんな同じものを着るから、一番のお気に入りでなくても、誰かにとってこれはないよねと言う物はNGでしょう。

ちょっと待って、これは絶対にないよねと言うウエアーはどんなウエア?

それは私がカタログをめぐって、インドのシンドゥ・プサルラ選手はいつもワンピースで試合する姿を思い出して、このワンピースは『可愛いね』を口ずさんだ時に、周囲から笑いと無理無理無理の連呼が起きたことがその答えだ。

確かに中高年のおばさんがワンピースのウエアを着て試合に出るのは、チャレンジを越して痛いと認める。

しかも実力の世界だから、対戦相手に痛々しい視覚で動揺させる戦術はゼロ効果でしょう。

私はこのワンピース可愛い発言の反動に、すぐさま可愛いと言ったが着ると言ってないに釈明した。

負け惜しみではないが、20代前半なら着て試合に臨む勇気はあったと思う。

バーゲンセール期間中に決めないといけない、皆の意見をまとめるに絶対NGポイントを上げってもらった。

ワンピースは論外、ほかに例えば、赤とピンクは少し入ってもダメ、蛍光色も避けたいだとか。

最後は白系、グリーン系、ブルー系からピックアップして、投票の結果は白地に水墨画調デザインの一枚に決めた。

まだ同じ物を着る他のチームと会わない視点から見ればいい選択をした。

チームユニフォームを着ることで試合会場でメンバーを見つけやすい、連帯感が生まれやすく団体戦に一助けにもなるのだ。